Creature Comforts

慢性的中二病

R100

R100見ました。すでに前評判はよろしくないとは聞いていてけど、この目で天才松本人志の監督作品というのをちゃんと見てみたかった。

そもそもコントをつくる才能があるのは自分が小さいころから思い知らされているわけで、その才能が映画で花咲かないわけはどこにあるのだろう、というのが大きな疑問になってました。

 

いかネタバレも含みます。

 

結論から言うと映画、もっと広げると物語の基礎をまったく無視しているように感じました。部分的にコントをつなげるだけでひとつの物語を作ろうとしてしまっているのではないか。これならオムニバスのコント作品を並べてもらったほうが数倍形になる。

あと、いろいろな評で語られているとは思うのですが、メタ視点で直接語られてる「俺はお前がこんなことを感じてるのは知っているんだぜ。でも俺はあえてそれを無視して作品を作り上げている。」という言い訳たっぷりの直接的な主張。

要は大森さんがなぞのSMクラブにひどい目に合う、というストーリー自体は100歳の監督が自分の主張を通して作り上げた作品なのだ、という体が物語に織り込まれていく。そして関係者たちが映画の内容に突っ込みをいれていく。

たとえば、映画のなかで脈絡もなく地震が2回おきる。この件についてメタ要素のなかで「あの地震は伏線なのか?」「いえ特にこの後出てきません。」「これが今の日本のリアル、ということで作られているようです。」と議論するシーンがあるのですが、これがすべてを物語っているかと思います。映画にリアリティを、というのはよく問われる評だと思うのですが、そのアンサーとして、ほんとにリアリティを出したら、物語に関わりあいなく地震って起こるよね?ということ言いたい感じなのです。

さらに最後に「100歳にしかわからないと監督がいっています。」「100歳なんて何人いるんだ!」とつなぐ。

要は、一部選ばれたひとしかわからないよね、という真意がわかりやすく描かれている。 これは宮崎駿の最後の作品、「風立ちぬ」と似た主張なのだ。つまり、なんかみんな俺の作品でギャーギャー騒いでいるが、俺のお前らの考えていることろとは違う発想なんだ、という主張。上から目線にも捉えられそうですが、多分本人たちにとっては上からのつもりは全くなく、とにかく世間と本人のギャップというのを強く感じていると思う。ただ、この2作の違うところは映画として成り立っているかどうかという、一番入り口の部分で分かれている。

 

一映画ファンがおこがましくも言わせていただきますが、まず普通に映画を作るところからはじめてもらいたい。物語の基礎はしっかり固めてもらいたい。そのベースができているならば、松本人志の天才的発想が十分生きてくると思うのだ。

この比喩が合っているかはわからないが、映画の基礎的名部分は憲法、監督がいじれるところが法律なのだ。松本氏は憲法を直接自分の感性でいじるような作り方をした。それはすでに映画とは言わない。

一緒に見に行った友人との見解が分かれたのだが、私は松本氏は敢えて、映画のつくりを全部無視したつくりにしているのかと思っている。しかしながら友人は松本氏は映画の基礎のつくりはできない、といった。できないのか、やらないのかは知りようはないのだが、私は彼が自分の信念とかプライドとかを捨てて作品を作ったときが彼の最高傑作が生まれるときだとおもうのだ。